事例

特許事務所の DX。リモートワークを支えるローコード開発の舞台裏

日本出願のみならず世界 90 か国以上での国際特許出願実績を有する特許事務所サイクスでは、膨大な特許関連データを保存・管理するため、市販の管理ソフトを利用して案件や期限などを管理してきた。しかし単一のソフトだけでは管理しきれない詳細情報が多く、結果として複数のアプリケーションを利用していたため手間がかかり、人的ミスを回避するために二重三重の確認が必要にもなっていた。そこで Claris FileMaker を活用して新システムを内製開発したところ、情報の一元管理ができるようになり大幅な効率化と標準化を実現。開発を担当した特許業務法人 特許事務所サイクス 総務グループ 柳澤 はるか 氏と、ユーザーとして日々利用するジュニアパートナー 弁理士 小杉 達郎 氏に話を聞く。

高価なパッケージでも網羅しきれない特許業務

特許事務所サイクス (SIKs & Co.) は、弁理士が 16 名、全所員が 50 名強 (2022 年 4 月 30 日現在) と、特許事務所としては中規模の組織である。得意分野は、有機化学・高分子化学・物理化学・医薬・バイオ・光学・生化学・無機化学・分子生物学・食品・化粧品・化学工学・分析化学・電気化学など多岐にわたり、近年開発が進んでいる化学・バイオ関連技術と他分野の技術が融合した境界領域の新技術についても、積極的に取り扱っている。

日本メーカーの工場の海外移転増加などの要因もあって、多くの案件で複数国での海外特許出願が増えている。出願国は欧米などの先進国のみならず、アジアや中南米地域など多岐にわたる。また、各種書類を紙で管理する特許事務所も少なくないが、サイクスでは電子化に積極的に取り組み、ペーパーレスが徹底されている。

一般的に特許は出願から取得まで、 約 3 ~ 5 年かかる。特許出願後、審査における複数回の手続きが必要となり、プロセスの一つひとつに期限が決められている。しかも、各プロセスは半年、1 年などかなり長いスパンを空けて発生する。弁理士は常に複数の案件を抱えており、当然のことながら記憶だけで管理することは到底不可能だ。小杉氏は「年間 40 ~ 50 件を扱い、1 件につき平均 2 ~ 3 国への出願となるので、それを合わせると年間 120 ~ 150 件程度にもなります。取得まで何年もかかるため、累計では相当数の案件を担当することになり、すべてを覚えおくことはとてもできません」と語る。

そこで、業界では特許業務用の期限管理ソフトが広く利用されている。サイクスでも 20 年以上前から利用していたが、課題があった。まずソフトが高価だったことだ。全員に ID を配付できず、2 ~ 3 名につき 1 つの ID という状態だったため、必要な時にすぐ使えないケースがあったという。また、そのソフトではデータのインポートができなかったため、複数のデータを一括入力できず、一つひとつ手入力する必要があった。

小杉 達郎 氏 (特許業務法人 特許事務所サイクス ジュニア・パートナー 弁理士)

汎用ソフトウェアでの管理は人的ミス回避のための多重チェックが必要

期限管理ソフトでは主にオフィシャルな期限を管理し、Microsoft Outlook や Microsoft Excel を併用して個人レベルの進捗管理などを補っていた。Outlook ではメール通知機能を利用して、タスクの管理と情報共有を実施。Excel では顧客や海外の弁理士 (現地代理人) のリスト管理、料金表や見積書の作成などを補完。そのため特許事務では、少なからず手作業が残る状態であった。柳澤氏は、「例えば金曜の午後、弁理士に翌週のスケジュールを報告しますが、それをまとめて送付するだけで 2 時間くらいかかっていました。また、手作業ゆえに内部の弁理士に不十分な情報を送付してしまうこともありました」と語る。

柳澤 はるか 氏 (特許業務法人 特許事務所サイクス 総務グループ)

個人的な業務改善からスタートし、全社を巻き込むシステム開発に発展

当時、特許事務を担当していた柳澤氏は、非効率的な事務作業により仕事が終わらないという課題に直面していた。子どもができたことで課題は一層の重みを増し、同僚も同じように大変な思いをしていると感じていた。そこで、なんとかこれを解決できないかと個人的に業務改善用のソフト開発を模索。

まず、以前に利用したことがあった Microsoft Access を試してみた。しかしこれは複雑な仕組みを構築するのには使いにくく、構築を断念。さらに調べた結果、Claris FileMaker を含め 3 つのソフトを検討し、最終的に FileMaker での開発を選択した。その理由を柳澤氏は、「デザインが使いやすく、イメージした通りに作りやすいところが気に入りました。ローコードなので自分たちでメンテナンスができ、業務に合わせて変えていけるところも評価しました」と語っている。

そしてまずは、無料評価版で自分の業務を管理できるソフトを作成。実際に使ってみてある程度効果が得られた。そこで Excel を高度に使いこなしていた同僚に見せたところ、高い評価を得ることができた。「その方に事務所の代表を説得していただきました。管理業務を FileMaker の導入で間違いなく再現できるかどうか、スケジュールや金額、また混乱することなくデータ移行できるかどうかなどを確認され、すぐに OK がでました」(柳澤氏)。これが 2014 年初頭のことである。

2014 年秋には所員全員に対してプレゼンテーションを実施。個人的に他のツールを使って管理している場合は教えて欲しいと伝え、必要な機能を FileMaker 上で実現できるように網羅していった。要件をヒアリングした結果を受け、試作したソフトを元に拡張するのではなく、全員が使いやすいシステムを目指して新たに一から設計開発する道を選んだ。2015 年 1 月には仕様を固めて開発会社に開発を依頼。柳澤氏は、「コストを抑える意味もあり、ミニマムな骨格だけをつくってもらいました。使いながら少しずつ機能を足していこうと考えていました」と語る。

開発で特に苦労したのは期限の計算方法だ。各期限は、自動計算で表示されるようになっているが、その計算式を作り出すのに苦労した。2015 年 4 月にプロトタイプが完成し、一部修正とデータ移行を経て、7 か月後の同年 8 月に新システム「S-PAT®」の本番運用を開始した。「運用を開始してからも、皆さんに間違いがないかどうか確認してもらい、間違いがあれば修正を繰り返しました。また、機能追加の要望にもできるだけ応えました」(柳澤氏)

2015 年 8 月より運用を開始している期限管理画面。細かな設定がされているため網羅的に管理できる

プロセス全般にわたる業務管理を実現

S-PAT®は、期限管理だけでなく、特許業務プロセス全体における業務の支援と管理ができるようになっている。特許の有効期限は出願から 20 年。最低でも期限が切れるまでの保存が必要だが、サイクスではペーパーレスが進み物理的な紙の保存が必要ないこともあって、扱った特許に関するデータはすべて電子化し保存している。現在の取り扱い件数は約 43,000 件にのぼる。

一覧画面に顧客情報や特許の内容といった基本情報から、申請プロセスの進捗管理、他国への出願がわかるファミリー表示、必要書類の関連付け、さらには請求書の作成など、特許業務に必要なあらゆる情報を閲覧・実行できるようになっている。

Claris FileMaker で作成したメニュー画面。ここにアクセスすれば全ての案件の業務支援と管理ができるよう、所員へのヒアリングをもとに試行錯誤をして作成したという

柳澤氏は、「期限管理ソフトや Excel 、Outlook 、Word など、都度別の画面を開いて確認するのが非常に煩わしかったので、とにかく一覧できることにこだわりました」と語っている。小杉氏も、「例えば他国への出願状況がわかるファミリー表示は以前のアプリケーションではできませんでした。国内の出願と海外の出願は通常同時に進行します。例えば日本で出願が拒絶された場合、他国でも同様の理由で拒絶されることが予想されます。一覧表示されていることで、他国の例を参照しやすいので早めの対応が可能となり、助かっています」と評価している。

また、顧客に文書を送付する場合、宛名が自動的に差し込まれる機能もある。「当初文書作成は Word じゃないと、という抵抗もありましたが、実際に使ってみると便利なので、徐々に受け入れられていきました」(柳澤氏)。覚書を記しておけるメモ欄も用意。また、RPA と連動して期限の一定期間前になると、自動的に弁理士本人と上司にリマインダーを送り、対応漏れの防止を実現するなど、すべての業務が S-PAT® で完結できるよう随所に工夫が凝らしてある。

現地代理人住所録の画面

請求一覧画面

2 時間かかっていたスケジュール連絡が 90% 以上 削減し、業務標準化を確立

S-PAT® により、従来 2 時間程度かかっていた弁理士へのスケジュールの連絡が数分で終了するなど、大幅な効率化が実現しただけでなく、手入力したデータを再確認する時間もかなり短縮できた。Excel では、半角や全角など入力形式の制御を徹底するのが難しく感じたが、FileMaker は文字入力の制御が容易なので、人によるデータのバラツキが起きない。

また、業務の標準化にも役立っている。小杉氏は、「以前勤めていた特許事務所は紙で業務を進めていたのですが、その時は人によって保存資料が異なり、引継ぎの際に困ることもありました。このシステムなら一画面から必要な情報にすぐにアクセスできるので、誰から業務を引き継いだとしても問題なく進めることができます」と語っている。

機能の追加や修正といったメンテナンスを一手に引き受けていた柳澤氏は一旦退職したため、最初に相談した同僚にメンテナンスを引き継いだ。柳澤氏はその後、総務部門にて復職。新たな FileMaker の活用方法の検討を開始している。「例えば各種備品の資産管理は、社内を動き回って確認します。その際に FileMaker Go を使えば、その場で備品の撮影や入力ができるようになります。iPhone などのモバイルデバイスをぜひ活用していきたい」と今後の抱負を語ってくれた。(柳澤氏)

サイクスの業務効率化は日々利用するユーザーの的確なフィードバックと、開発側の"全員が使いやすいシステムを"という想いが嚙み合わさり、実現できているのだろう

【編集後記】

サイクスは、DX を実現した最先端の特許事務所だ。コロナ禍以前からリモートワークに取り組み、現在は多くの所員が在宅勤務を行っている。特に弁理士はほぼ全員在宅勤務だという。取材当日は事務所に伺ったのだが、小杉氏はなんと 2 年ぶりの出社とのこと。それでまったく業務に支障がないというスマートな働き方に感心した。その中心にあるのが FileMaker による自社開発の特許業務管理システムだ。優れた一覧性により業務効率化やミスの撲滅に役立っている。弁理士や特許事務担当者のみならず、経理や総務を含めた全社員が活用している。